美しい朱色の大鳥居が印象的。

ここはアメノヒボコの4世孫、田道間守(タジマモリ) 命の生誕地です。

タジマモリは、垂仁天皇の側近で不老不死の薬を求め

常世へ約十年の旅に出て持ち帰ったのが橘。

それがお菓子のルーツとされ、お菓子の神様として

全国のお菓子業者さんが参拝に来られます。

橘、私は薬の神様の方がしっくりきます。

垂仁天皇の父、崇神天皇の頃は疫病や災害が多く

国民の半数が亡くなる事態があったようです。

疫病や海を渡る人たちは壊血病がおき、おそらくは、 橘のビタミンCが不老不死の薬といわれた由縁ではと想います。

持ち帰った橘が、 和歌山や愛媛のみかんの先駆けでもあったようです。

御祭神

田道間守命(たじまもり)

配祀天湯河棚神 (あまのゆかわだなのかみ)

祭神は天日槍(あめのひぼこ)の四世の孫である田道間守命 ( たじまもり) と鳥取部連の祖、 天湯河棚神 (あまのゆかわだなのかみ)。 平安時代に記された 『延喜式』 に社名がみえる。

祭神の田道間守命が垂仁天皇の命により「常世の国」に派遣された説話が『古事記』『日本書紀』にあり、 そのおり 非時香果」(ときじくのかぐのみ) を持ち帰った。『古事記』はこれを橘(たちばな)としており、 また橘は古来菓子の最上品であったことか ら、菓子の祖神として尊ばれ、その守護神とされている。

社名は、田道間守命の墳墓が垂仁天皇陵をめぐる池の中にあって、島であったことから名づけられたといわれる。

現「掲示板」

当神社の創立は甚だ古く、 約1300年前の第33代推古天皇(在位592~628) の御代と言われ、 現在の朱塗りの本殿は、今より約600年前の室町時代中期、正長元年(1428年)に、 但馬の領主山名氏により建立されたもので明治45年国宝に指定さ れております。

御祭神の田道間守命は韓国、 昔の新羅の王子で、 我が国に渡来して帰化し、ここ但馬の国を賜り、これを開発した天日槍命 (旧国幣中社但馬一の宮出石神社の祭神)の曾孫で、 第11代垂仁天皇の命を受け、当時の菓子としては最高のものとして珍重せられた「非 時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」 (橘… みかんの一種) を常世の国 (現在の韓国済州島と言われている) に渡り長い歳月をかけ、 艱難辛苦のすえ持ち帰りましたが、 天皇は既に亡くなっており、 命は悲嘆の余り、 その御陵に「ときじくのかぐのこのみ」を献げた 上、殉死されました。

ときの景行天皇(垂仁天皇の第三皇子)は、命の忠誠心を哀れみ、 御陵の池の中に墓を造らせられましたが、 推古天皇の御代になって、 命の子孫で七代目の孫にあたる当地三宅に住む吉士中嶋の君と言う方が当社を創立し、命を祭られたと伝えられております。 中嶋神社の名は、 御陵の中の命の墓が、 中の島に見えるところから名付けられたと言われ、いのちをかけて 「ときじくのかぐのこのみ」 を持ち帰った命を、 菓子の神様として祭るようになり毎年四月の第三日曜日を、 橘菓祭 (菓子祭) とし、 全国より菓子業者の参 拝もあり、招福・家業発展を祈願して、 盛大に祭典が行われます。

旧 「社頭掲示板」